勉強とプログラマとバカと
勉強が出来ない奴はプログラマになれ!(バカだからできる勉強法) - IT戦記
(kinnekoの日記 20060805経由)
僭越ながら私見を述べたい。
まず、広義の「勉強ができる人」は、「考える力のある人」とする。
ここで言っている「勉強」は、「学校のつまらない授業」を指している。ここで、「考える力のある人」は、学習自体に興味を覚えるか、授業は真面目に受けるものだという義務感によって、授業についていく人と、学習は面白いがクソつまらない授業についていく気が更々ない人に分かれる。(考える力があるかどうかは疑問だが、私は後者。)
後者の場合、論理的思考や体系的学習の素養はあるので、興味を持った分野なら、物凄い集中力を発揮して通常の何倍もの速度で習得していく。但し、興味のないことは全くやらないので、常識的知識は乏しくなる。「天才とバカは紙一重」ということだ。この言葉は、常識がない部分をバカと言っている。常識の範疇では、天才の斬新な発想は得られないのだろう。
私は、「考える力のある人」はバカだとは思わない。それはやる気がないとか、必要性を感じないという感情で、あとはどのように社会的接点を求めるかの話になる。授業についていく人は、そこに社会的接点を求めているに過ぎない。授業についていけたとしても、何も考えずについていくことが最良である、と考えることのほうが「バカ」に近いと思っている。
人間は固体によって、驚くほど考え方が異なるので、教える側と教わる側のどちらかが歩み寄ることが必要になる。具体的に言うと、教える側が相手の考え方を慮って相手にあう教え方を選択するか、教わる側が教師の教え方の真意を理解するため思慮を巡らすか、である。つまり、人のペースに合わせることが得意か、または重要と考えているかということだ。
あと、プログラマの定義として、高度な数学の知識を要求するものと、そうでないものがあるので、前者を狭義の、後者を広義のものとする。
そういうわけで、私は、「バカ」とは「考える力のない人」で、「勉強ができない」は必ずしも「バカ」ではないと考える。ゆえに、
勉強ができないけど考える力のある人は広義のプログラマに向いている可能性があります。(教わるのに向いていない人の独習法)
のほうが正しいと思う。